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英語と楽器のアナロジー(その1)

さて、いきなりであるが、自分にとって、英語ができるということは、楽器(以下、ギターで代表)ができるということと、似たような意味を持つ。

どういうことかという、できればうれしいけど、できなくても、どーってことないと思っているってことである。

そうなのだ。だから、これからは、英語ぐらいできなくちゃ駄目だ、とか言っているのを聞くと、これから、ギターぐらい弾けなくちゃ駄目だと、言っているのを聞くのと同じくらい、はぁ?とか思ってしまうのだ(笑)。

もちろん、英語ができるようになりたい人、できるようになる必要がある人は、どんどんやればいい。ギターを弾けるようになりたい人や、弾けるようになる必要がある人がそうするように。また、以前に比べて、英語が必要な人も増えているのかもしれない。でも、だからと言って、日本人全員が英語ができるようになる必要はないだろう。別に英語を母国語とする国の植民地ではないのだから。

よく、なぜ日本人は英語ができないのか?なんて、うんこ(失礼)みたいな問いを発する人間がいるが、自分にとっては、なぜ日本人は、他国の植民地や属国のなりたがるのか?の方がよりリアリティのある問いである。

自分が思うに、日本人が英語ができない理由は、単純に、多くの日本人にとって、別に、英語ができるようになる必要がないということにつきる。これまで、日本人だって、英語の達人と言われるひとはいくらでもいたのであって、別に達人までいかなくても、英語が本当にできるようになりたかった人、できるようになる必要があった人は、それなりにできるようになっていたのだから、別に、民族的な能力の問題はないだろう。

では、なぜ、日本人は、英語ができるようになる必要がないのか。それは、日本人は、幸いなことに、母国語である日本語だけで、高度な教育も受けられるし、高給取りにもなれるし、高度な文化も享受できるからである。我々は、英語ができないことを嘆くより、このことにもっとありがたみを感じてもよいのではないだろうか。

なお、グローバル化至上主義者や経済至上主義者にとっては、上記のような状況は、幸いなことではないのかもしれんが、自分は、グローバル化なんて糞食らえ(失礼)と思っている方なので、上記のような状況を全面的に肯定しているのである。

翻訳家の山岡洋一氏は、日本が明治時代に、欧米の進んだ知識を翻訳という手段で学ぶ方法を採用したことに関して、次のように書いている(翻訳通信2010年6月号(pdf)1頁)。

 日本は欧米の知識を学ぶためにどういう方法をとったのか。ひとことでいえば、「翻訳主義」をとったのである(丸山真男・加藤周一著『翻訳と日本の近代』岩波新書、43ページ以下を参照)。

 つまりこうだ。欧米の進んだ知識を学ぶ方法は大きく分けて2つある。第1が、英語なりフランス語なりの欧米の言語を学んで、欧米の言語で進んだ知識を学ぶ方法である。第2が、母語に翻訳して欧米の進んだ知識を学ぶ方法である。当時の後進国の大部分は、19世紀には欧米の植民地になっていたこともあって、第1の方法を採用している。第2の方法を採用したのは、ごくごく一部の国だけであった。その代表が日本であったといえる。

 丸山真男と加藤周一が指摘しているように、明治の初めには第1の方法をとるべきだという主張があったが、それでは「上流階級と下層階級でまったく言葉がちがってしまう」と批判されたという(同書45ページ)。

 日本は翻訳主義を採用した結果、当時の後進国にはめったになかったことだが、小学校から大学までの教育をすべて自国語で行えるようになった。

なお、明治の初めに第1の方法をとるべきと主張していたのは、森有礼で、それに対して、上記批判をしたのは、馬場辰猪とのことである(翻訳通信2005年4月号(pdf)1頁)。森有礼が、上記主張をしたのが、ニューヨークで出版された"Education in Japan"という本の序文であり、馬場辰猪が上記批判をしたのが、自身が英語で書き、ロンドンで出版された日本語文法書の序文だというのだからすごい。

山岡氏は、日本が第2の方法を採用した結果、『「上流階級と下層階級ではまったく言葉がちがってしまう」事態を日本が避けられたのであり、この点と、欧米以外の国ではじめて近代化を達成できたこととの間に関係がなかったとは思えない。翻訳主義をとったからこそ、いまの日本があるとすらいえるかもしれない。』と書いているが、まさに、その通りではなかろうか。

話が長くなったので、続きは別記事で(多分)。

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コメント

ううむ。。。興味深いトピックでした。。。
最近よく、「英会話やりたいし、日常会話ができるようになりたい」という子供関係のおかあさんから聞くのですが、

 。。。。日本にいるかぎり、いらんな。日常会話。。。

てかんじです。ほんと、ギターを弾きたいのとおなじか。。

趣味で話せるようになりたい。というか。


しかし、大学受験に英語があって、企業でも続々と英語力がある人を求める動きが、どうも子供の将来を考えたら、「趣味程度」でいいよといいづらい。。できるにこしたことないかとはっぱをかkてしまいますな。。。。。(汗)

ではでは

投稿: 大阪の主婦 | 2011年2月13日 (日) 13時00分

大阪の主婦さん、コメントありがとうございます。

趣味の場合は、役に立つかどうかや必要かどうかではなく、単純にやりたいかどうかなんで、やりたければどんどんやるということでいいのではないでしょうか?

お子さんの教育方針については、基本的に、各家庭で決めることだと思いますので、とりあえずノーコメントということで(笑)。

投稿: 積読亭 | 2011年2月13日 (日) 23時57分

おはようございます、積読亭さん。

なかなか興味深いエントリでした。一時期、サックスやりたくてレッスンに通ったりしてましたが練習場所の確保が難しく挫折しました。その点、英語はいいですね。黙って本を読んでる限り、誰も文句いいませんし(笑)。

自分なんか物好きでやってる最たるものですが、これから英語ができる/できないってのが人物の判断基準になるかもしれないってとこが問題ですね。自分には関係ないですが・・・。

会社も稟議書は電子化されましたし、資料はPCファイルで。PC苦手な年上の方に苦慮しております。データをファイルで出してくれたらラクチンで効率的なのにと常々思います。英語もそんなふうになるんかいな?と。しかし表計算ソフトを使うよりは、はるかに難しいでしょうね(笑)。

投稿: でんすけ | 2011年2月14日 (月) 07時23分

でんすけさん、コメントありがとうございます。

デジタルデバイドならぬ、英語デバイドでしょうか。万が一、英語が公用語とされたら、確実に発生するでしょうね。もしかしたら、中国語デバイドかもしれませんが(笑)。

PCと英語のアナロジーで考えると、PCで表計算ソフト等を使えることに相当する程度に英語ができる人は、今でも、ざらにいるような気がします。PCでプログラムが書けることに相当する程度に英語ができる人は、限られると思いますが、そもそも、普通の人は、PCでプログラムを書ける必要なないのですから、少なくてもなんの問題もないのではないかと(笑)。

投稿: 積読亭 | 2011年2月14日 (月) 22時18分

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